あの時代の日本人、そして現在の私たち

今年は1945年から70年目だ。そのためか、あの時代、あの戦争を回顧するようなものを例年に比べて多く目にする。

あの時代をどう考えるのか、自分の人生にどう生かすのか、私には一つの指標にしているものがある。伊丹万作(映画監督)さんの「戦争責任者の問題」という文章だ。『伊丹万作全集』筑摩書房, 1961年7月初版の第1巻の最後(p.205)にある。初出は『映画春秋』創刊号・昭和21年8月、原稿の日付は4月28日と記されている。

この全文は、現在、「青空文庫」で読むことができる。以下。
伊丹万作 戦争責任者の問題 (URL:http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html)

伊丹さんは、あの戦争について、いたいけな子供を除いて、すべての日本人自身が戦争の加担者だったと言う。それを「自分はだまされたのだ」などと卑怯な言い訳はするな、だまされたというなら自らの不明と意志薄弱を恥よ、と。そして、だまされたというなら、もう二度とだまされないように自らを真摯に真剣に省みよ、「あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。」と言い切る。

私は、これがあの戦争の真理だと思う。しかし、その後から現在はどうだろう。70年後の今日、私たちは「だまされて」いないのか、私たちの悪癖は少しでも改善されたのだろうか。私は疑問に思う。だから、二度とだまされないよう、権力やマスコミ、政党、威勢の良いことを言う人などの言うことはすべからく「本当にそうなのか」と考える。

伊丹万作さんは、この文章が雑誌に掲載された直後、1946年9月21日に京都で死去した。享年47歳。

以下、「戦争責任者の問題」からの引用。これらは、ハンナ・アレント(Hannah Arendt)が「アイヒマン裁判」の報告において指摘した「悪の凡庸さ」とも同質の視点だと思う。

だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家と に劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを 際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。

いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。

だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされ たとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現 を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこ ととは、されていないのである。

上記のことから、戦争責任についての以下の一文は至言だと思う。

いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。

そして、今後を考えるとき、私たちはどう生きるのか、以下に明示されている。

また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失 い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのであ る。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

昭和21年(1946年)時点での以下の警句は、その後の日本に生かされたのだろうか。

「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。