解消しない疑問

「小説」の読み方は人それぞれだろう。たんに面白い話、よく出来た物語として読む人もあれば、作中の人物にだれかを投影する、共感して読むという人もあるだろう。私は、どちらかと言えば客観的に読む方だと思う。

作者はどういう意図でこの物語を書いたのか、何に触発されて何を表現しようとしたのか、それを考える。ただ、「小説」は作者が創作したもので、どこかに似たようなお話や出来事があったとしても、あくまでそれは架空の物語、そういうものだとも思っている。

昔、若い頃に読んだ小説で、未だに解消できない疑問がのこるのが『わたしが・棄てた・女』(わたしが・すてた・おんな)だ。遠藤周作さんの長編小説で、遠藤さん自身はキリスト教信者、その宗教観に根ざした小説を書いた人だ。手許にある文庫本は初版が1972年。この小説は1963年に『主婦の友』に連載され、1964年(東京オリンピックの年だ)に刊行された、と「あとがき」にもある。

小説に描かれるのは戦後すぐから昭和二十年代半ば、まだ日本中が貧しかった時代だ。主人公は中学を卒業後に農村から都会の工場に働きに来ている娘、もう一人は地方から都会の大学にすすんだ青年。その青年がひとかどの仕事を得、安定した暮らしをする「今」から、心に引っかかる過去のことを回想(あるいは懺悔か)する形で始まる。本の解説には「ハンセン病と診断された森田ミツの一生を描き、その一途な愛と悲劇を浮かび上がらせる。」とある。

私がこの小説を読んで解消できない疑問は二つある。主人公の女性は他人の不幸を自らのことのように感じ、なけなしのお金まで与えてしまう「幼児のような受容」を体現する存在として描かれる。が、その種の行動、主体性と知性を要しない「幼児のような受容」は本当にキリスト者の言う「献身」なのか、ということだ。
もう一つ、そんなキリスト教を始めとする宗教は神の名の下に他の宗教の信者を憎み虐殺し、現在もその争いは続いている。「受容」と「献身」は同一宗教信者間にしか存在しないのではないか。否、同一の神を信じながら、教義の解釈や後継者で争い分派し殺し合ってきた、キリスト教とイスラム教には千年にわたるそんな歴史がある。それは今も続いている。

作者の言う「幼児のような受容」のもとにある「献身」は、宗教に根ざしたものではなく、深い絶望の対局にしか存在し得ないのではないか。ハンセン病患者の看護に生涯を捧げた井深八重さん(小説のモデルだとも言われている)の人生から、そんなことを考える。

私は、すべてに神が宿る「八百万の神さん」のような、ゆるやかな受容に人の智恵を感じる。