「近衛家別邸御花畑絵図」の発見とともに屋敷地の場所が特定された、という記事が京都新聞にあった(2016年06月10日号)。
薩長同盟締結の邸宅、場所を特定 京都の研究家、文書で裏付け : 京都新聞
以下、引用。
文書には「北(鞍馬口通)間口四拾八間六寸、西(室町通)奥行三拾三間三寸」と記され、総坪数(1796坪)や「瓦平家建」「瓦住居二階建」「土蔵」「瓦平家長屋」の記述も確認できた。鹿児島市で開催中の企画展「幕末薩摩外交」で初公開された「近衛家別邸御花畑絵図」にも森之木町の記述があり、水路の位置が別の古地図と重なることからも裏付けられた。
上記の記事から推測してみると、幕末の頃、室町通は寺ノ内で大きな寺院(無学寺)に当たり、屏沿いに約50メートルほど東に折れて、寺の屏沿いに北行する。西側はこの室町通、北側は鞍馬口通(現在と同位置)、東は擁翠園(日本庭園、後藤家屋敷跡)より西、南は相国寺の北端境(明治半ばの地図には細い路地がある)に囲まれた場所が、御花畑(近衛家別邸)で薩摩藩家老小松帯刀の宿舎と言うことになる。敷地は1796坪(6,000平方メートル)、鞍馬口側が約88メートル、室町通側が約60メートル。
地図は、現在のGoogle Mapに明治25年の地図をあわせたもの(このあたり、明治地図とGoogle Mapの重ね合わせの具合か、10mほどのズレがある)。
近代京都オーバーレイマップ
現在の烏丸通は、当時存在していない。京都御所西側に沿う道(旧烏丸)は、同志社大学を越えたあたりで相国寺につき当たり先はない。当時、京都中心部を南北に貫く主要道路は室町通だ。相国寺の屏に沿って80メートルほど西へ向えば室町通にあたる。
私は、この小松帯刀(当時まだ三十を超えたばかり)こそが、倒幕から明治維新を決定づける役割を果たした人物だと考えている。当時、薩摩藩主島津久光の名代として京都にいた小松が京都での朝廷や幕府、他藩との交渉や調整の全権を担っていたのだと思う。しかも小松は大藩の重役でありながら坂本龍馬などとも親しく、西郷や大久保、桂(木戸)に龍馬を引き合わせたのも小松だ。薩長の盟約を決断できる立場にあったのは小松帯刀しかいない。そして藩主島津久光を説得できる立場にあったのも小松のみだ。
小松は明治3年に数え36歳で亡くなる。足の痛みや胸の痛みなどにしばしば襲われていたようで、当時の藩重役の手紙には「御肺病」との記述があると、彼の伝記(『幻の宰相 小松帯刀伝』瀬野冨吉, 小松帯刀顕彰会, 1985年)にあった。西郷・大久保が戊辰戦争をしかけた時、小松は京都にいなかった。病が重くなり薩摩に戻っていた。もし小松が生きていたら、明治も日本も違った国になっていたのではないか、そんなことも夢想する。が、歴史に「if(イフ)」はない。
鞍馬口通はよくとおる道だ。ここで薩長同盟の話し合いが行われたのか、そんなことを考えながら自転車で走るのも、また愉しい。