善く死ぬために善く生きる

妻が突然にこの世を去って5年が過ぎた。52歳だった。妻は3.11の惨事を知らずに逝った。私たちは30年目の結婚記念日をともに迎えることはできなかった。

自分がまさかこんなに早く独りになるとは思ってもみなかった。私の方が三歳年長でもあり、私たちは私が先に逝くものだと考えていた。前年に義母(妻の実母)が亡くなったこともあって、死は自分たちにとって身近なものになっていたはずだった。しかし、自らのこととして実感していたかどうか、互いにもう少し先のことだと考えていたのだと思う。

私は、妻の死の知らせを東南アジアの国の仕事場で受けた。6週間の出張を4週間で切り上げた。予約済みだった便の変更を同僚に頼み、荷物をまとめて空港に向かった。途中、シンガポール空港発関空着の便は確保できたが、この国からシンガポールへの便が確保できない旨の連絡を受けた。空港でキャンセル待ちするしかない。4時間待って何とか席が確保でき、シンガポール発の便に間に合った。

人生であれほど長い夜を経験したことはなかった。無理に目を閉じてみても少しも眠れない。「まんじりともしない」ということを実感した。

あれから3年が過ぎ、昨年末、4年にわたった東南アジアの国でのプロジェクトを終えた。

人の死は、それがどのようなものであっても、残された人たちに何らかの後悔と禍根を残す。「人は生きたように死んでゆく」、長く終末期医療にたずさわってきた医師は著書にそう記していた。ならば、あとに禍根を残さぬよう、善く死ぬことが人生の目標になった。そのためには善く生きねばならない。そう思いながら、淡々と日々を生きている。