今日、死を知らせる葉書を受け取った。以前勤務していた職場の上司のものだ。「故人の意思によって家族のみで弔い、すべてを終えた後に知らせた」旨の詫びが記してあった。命日は5月26日、享年75歳。
30年ほど前のことだが、その人と一緒にある議員さんの葬儀に出たことがあった。仕事の一環でもあった。その帰り、「ワシはあんな葬式はかなわんなぁ」、「すべからく、退くときには静かに誰にも知られずに退場したいもんや」とその人は言った。その言葉どおりに、その人は去った。
私は、三十代半ばに勤めを辞めて、その後はずっと個人で仕事をしてきた。海外での仕事が主になってからも、京都に戻ったおりには、その人を訪ねてはついつい話し込んでしまう。その人は聞き上手でもあり、しかもさりげない示唆をくれる人だった。
仕事には厳しい人だった。広報誌の原稿を初めて書いたとき、「よし」と言ってもらえるまでに8回、全文書き直したことがあった。「これでは記事にならんなぁ」、「前のものは全部捨てろ。もう一度書き直し」
私は丸三日間、その記事にかかりっきりだった。最後に提出した原稿を丁寧に見て、その人は何カ所か手を入れた。それだけで見違えるほどの文章になっていた。
「しんどかったやろうけど、こういう苦労は若いうちにしといた方がええ」、その人はそう言った。
担当部署がかわっても、その人には相談をし、レポートなどもずいぶんと読んでもらった。勤めを辞めたあと、初めての海外プロジェクトのレポートも読んでもらった。「なぁに、書く苦労に比べたら読む手間なんぞたかが知れとる」そう言って、丁寧な感想と示唆をもらった。
人には、「あの人がいるから、こんなことでへこたれてはいられない」、そう思えるような人が要るのだと思う。私には二人いる。一人は妻で、もう一人が元上司のMさんだった。もう二人ともこの世にいない。それがなんとも寂しい。