あの頃の自分は何を見ていたんだろう

昔みた映画を見直した時、あの頃の自分は何を見ていたんだろうと思うことがある。

”Footlose”(邦題:フットルース)は1984年の、Herbert Ross が監督した映画だ。当時、監督は57歳、ただのダンス映画や青春映画を撮ったはずはないのだが、表面的にしか見ていなかったな。この映画は、若者には社会の理不尽と戦う方法を、大人になるとはこういうことだよ、そんなことを教えてくれているように思う。

ダンス禁止の町が舞台だ。羽目を外した高校生の事故が要因とは言え、ダンス自体が若者たちの不行跡の原因ではない。が、社会にはこうした理不尽な決定が、まま存在する。かたくなで偏狭で「道徳的な大人」はどこにでもいる。反発を無軌道な行動でしか表現できない牧師の娘(Lori Singer as Ariel)と、町民集会の場で熱くなりすぎず論理的に覆そうとする若者((Kevin Bacon as Ren)。その対比のなかに、大人としての振る舞いが示される。

例えば、主人公が「君の父親を嫌っているわけでも、それを理由に戦っているわけでもない」と、決定(思想や行動)と個人(的な好き嫌い)とは異なるんだと語るシーン。家族をすてて家を出ていった父親について「親父はあの時、そうするしかなかったんじゃないか」と母親に語るシーン。親を客観的に見ることは「自立」の指標だと思う。自分の今を誰かの所為にしない、親との関係に折り合いをつける、そういうことが「大人になる」と言うことなんだと。

そして、町民集会でダンス禁止への反対提案が却下されたら、町境の向こうの倉庫を会場に卒業パーティーを開くことで承認を引き出す。交渉によって妥結点を見出す、正面突破で敵対するよりも柔軟な思考で対処する、そういう大人のやり方もあると。

それをさりげなく、時代と若者に訴求する形式で、しかも、とてもかっこいい音楽やダンスや友情をみせる。”footlose”は、家庭や仕事、あるいは戒律などの束縛を離れて、好きな所へ行ける、好きなことができる、そいうい状態をさす言葉だ。「束縛」からの離れ方は逃避や敵対だけではない。

相手にもそれなりに納得のできる方法や論理で目的をかちとる、そういうことを冷静に粘り強くできる、それが大人ということだと思う。