描けなくなった画家の絵

今年の初夏に見逃した画家の回顧展が、この冬、伊丹の美術館にまわってきた。もう25年以上前に見た絵を、もう一度みたいと思った。この絵を残して画家は自ら命を絶った。この絵はいま以下に。
「1982年 私」(所蔵品のご案内 – 石川県立美術館)

東京ステーションギャラリー – TOKYO STATION GALLERY のそれは「北陸新幹線開業記念」。伊丹市立美術館のものは「伊丹市制施行75周年記念」。そしてどちらも画家の「没後三十年」。

展覧会は画家の画業を経年で振り返る展示になっていた。目的の絵は、画家のアトリを再現した最後の展示場にあった。記憶していたよりも大きい。その絵の前にはベンチがあり、そこで小一時間は眺めていたと思う。

画家は、目で見たものに刺激を受けて描いたのではないか。描けなくなり外国へ出た。日本にいては見ることのない異形(いぎょう)のものを見るためだったのではないか。陽の光、吹く風、空気の感触、におい、それらすべての風景や風土、そして人々のすべてが異形で、画家の精神を刺激して止まない。が、異形の刺激は長くは続かない。それが日常になればやがては慣れ、倦む。もどった日本にも画家の求める異形はなかった。神戸時代の裸婦のデッサンに、何ものかに突き動かされて描かずにはいられない、そんな熱情はない。画廊の要求に応えるため、描くことは作業になっていたのではないか。だから「1982年 私」は痛々しいのだ。この絵の前でそんなことを思った。

伊丹市立美術館の中庭にて(2015.12.09 12:48)座る私の前や後ろを多くの人が行き過ぎた。立ち止まって、あるいは同じように座ってこの絵を見ていた人はほんの数人だった。

出口は美術館の中庭だった。目に痛いほどの陽の光と冬の空、二筋の飛行機雲は消えかかっていた。