見ようとしないものは案外目に入らない

散歩しながら写真を撮っていて、後で見直してみると、「あれっ」と思うことがままある。先日も散歩していると空に朝焼けが広がりはじめた。早速カメラを構えてピントを合わせ、何枚か、場所をかえて何枚か。朝焼けを撮ったはずなのに(2016.09.26 0550)

が、写真は朝焼けよりも、林立する電柱と交錯する電線がやたらと目立ったものになっている。朝焼けよりも電柱を撮ったみたいだ。

写真を撮った時、電柱があるのは認識していた。が、目と意識の焦点は朝焼けに向いていた。電柱は意識の中ではずっと影が薄かったのだ。しかし、カメラは正直な機械だ。在るものは同等の存在して写る。

見たくないもの、見ようとしないものは、案外、目に入らないものだな、そう実感する。

つねに権力は、見ようとする人からものごとを隠し、見えなくし聞かせないようにする。批判し暴く人たちが機能しているのだろうか。どうも取り込まれつつあるように見える。

あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。

1946年に亡くなった伊丹万作(映画監督)さんの『戦争責任者の問題』の一節だ。

関連:あの時代の日本人、そして現在の私たち(2015年7月13日)