明るくなってきたので、いつものように町内の神社へ初詣にゆく。その後、蓮華寺の横を抜けて崇導神社へ向かう。昨夜から火の番をしていたのであろう若者が三人、いすに座って眠そうにしていた。「お疲れさん」。
今年はどんな年になるのか、否、したいのか。歩きながら考えようと思いながら、家に戻っても整理できていない。「まぁ、なるようになるさ」
「時は春、日は朝(あした)、すべて世は事も無し。」であれば良いと思う。
「春の朝」, 『海潮音』 上田敏
写真は、2016年元日の朝。
徐々に徐々に、冬の訪れが遅くなっているように感じている。12月になってもなお晩秋の名残がある。
下の写真は京都国際会館への連絡道から比叡山をのぞむ。紅葉はもうこれ以上は赤くならないほどの色だった。陽がのぼる直前、あけぼのの空に映える。(写真:真っ赤な紅葉と夜明け 2015.12.04 06:51)
紅葉の枝は葉がかなり落ち、枝を残すのみに。上空には下弦の月と明けの明星。(写真:下弦の月と名残の紅葉 2015.12.07 06:28)
気温が下がった朝、空気がピーンとしている。朝日がのぼる位置がずいぶんと南に移り、朝焼けも南に広がっている。(写真:凍みる朝 2015.12.01 06:59)
それにしても、同じ朝は二度とない、そう思う。
半年ほど前に、中高年向きというSNSに登録した。が、二月もせずに倦んでしまった。
外国に行く仕事はもうこれでお終い、と決め、少しばかりの仕事(年金がもらえるまでにはまだま期間があるので)と、今まで時間がとれずに十分ではなかった読書や映画や音楽や散歩などで過ごしてきた。妻が早世し、予期もしていなかった独りになってみて、ふと、同じような境遇の同世代は何を思い、どう日常を過ごしているのか、知りたくなった。
このSNSには、「日記」というブログと類似したサービスがある。会員の「日記」をしばらくは見ていた。が、飽きた。「どこに行った」「何を食べた」といった類いの記事がとても多いのだ。小学生の絵日記とまでは言わないけれども、それと大差ないような。それ以外でも、ニュースや新聞報道を切り貼りした評論めいたもの、見た映画や読んだ本のあらすじがほとんどの感想だとか、そんなものを見ていること自体が人生の時間の無駄遣いに思えてきた。(「日記」の内容よりも珍妙な言葉遣いや誤字脱字、果てには罵詈雑言の応酬もあるのだが、それは追々に)。
「アクティブでスタイリッシュなシニア」は、旅行や食事、衣料などに金を落としてほしい産業界の要求だろう。若者や子育て世代は生活とお金に余裕がないのだから。
「元気でいきいき自立したシニア」は、医療費や生活保護、年金の支出を抑えたい国や自治体には望ましいシニア象そのものだ。(65才までに退場してもらえば、なおのこと好都合だろう)。
どこかの誰かのための、思い込まされた「正しいシニア象」は政府や自治体の広報、放送・出版の宣伝に溢れている。「どこに行った」「何を食べた」と書いている人たちは、どうも「出かけた」「食べた」ということを文字や写真にすることで「充実してるんだ」と自らに言い聞かせているような、そんな感じがしてきたのだ。
どこかに満ち足りた日常をおくっているシニアがいるとして、それらの人たちはこの種のSNSで自分の充実ぶりを見せたいものかどうか、疑問に思う。そもそも満ち足りた幸せはあえて他者に「見せびらかす必要はないもの」だから。
今年の初夏に見逃した画家の回顧展が、この冬、伊丹の美術館にまわってきた。もう25年以上前に見た絵を、もう一度みたいと思った。この絵を残して画家は自ら命を絶った。この絵はいま以下に。
「1982年 私」(所蔵品のご案内 – 石川県立美術館)
東京ステーションギャラリー – TOKYO STATION GALLERY のそれは「北陸新幹線開業記念」。伊丹市立美術館のものは「伊丹市制施行75周年記念」。そしてどちらも画家の「没後三十年」。
展覧会は画家の画業を経年で振り返る展示になっていた。目的の絵は、画家のアトリを再現した最後の展示場にあった。記憶していたよりも大きい。その絵の前にはベンチがあり、そこで小一時間は眺めていたと思う。
画家は、目で見たものに刺激を受けて描いたのではないか。描けなくなり外国へ出た。日本にいては見ることのない異形(いぎょう)のものを見るためだったのではないか。陽の光、吹く風、空気の感触、におい、それらすべての風景や風土、そして人々のすべてが異形で、画家の精神を刺激して止まない。が、異形の刺激は長くは続かない。それが日常になればやがては慣れ、倦む。もどった日本にも画家の求める異形はなかった。神戸時代の裸婦のデッサンに、何ものかに突き動かされて描かずにはいられない、そんな熱情はない。画廊の要求に応えるため、描くことは作業になっていたのではないか。だから「1982年 私」は痛々しいのだ。この絵の前でそんなことを思った。
座る私の前や後ろを多くの人が行き過ぎた。立ち止まって、あるいは同じように座ってこの絵を見ていた人はほんの数人だった。
出口は美術館の中庭だった。目に痛いほどの陽の光と冬の空、二筋の飛行機雲は消えかかっていた。
気がつくと、マスク族が氾濫していた。朝の散歩の途中で行き交う人、地下鉄の駅に向かう人々にもマスクをしている人が目立つ。ジョギングしている女性はマスクのうえに帽子をかぶりサングラスまでしている。
朝まだ薄暗いなか、大きな帽子に大きなマスクで顔が見えない、そんな風体の人に鉢合せして思わず声を上げそうになるほどにギョッとした。
ある会合で同席した知人女性が「この前の日曜日、あそこのスーパーで買い物してたでしょ」と私に訊いてきた。「スーパーなんかに出かけるときはいつも大きなマスクして。お化粧しなくても良いし、まだ誰にもバレたことはないのよ」と、言葉は自慢げにも聞こえた。
一昔前の映画やテレビドラマでは、帽子を目深にかぶりマスクをした人物といえば犯人や逃亡者のありがちな描かれ方だった。その姿には多くの人が「怪しい」「変だ」「不気味だ」と感じる、だから成り立った。そういう認識が社会にあったからだ。
亡くなった天野 祐吉さんの『成長から成熟へ――さよなら経済大国』, 集英社, 2013年11月20日にも、この「マスク族」(天野さんは「マスク人間」と書いている)のことが「世の中の歪み」の例としてふれてある。
曰く「昔は、マスクなんかかけている人は、めったにいませんでした。だいたい、マスクをかけると顔が見えなくなる。顔が見ないというのはブキミなものです」
マスクをかける人にはそれなりの理由があるのだろう。風邪をひいているのか、花粉症でハナがずるずるなのか、それとも顔を出すことをはばかる何かがあるのか。ただ、マスク族の広がりについては、私も天野さん同様に、異様で不気味な光景だと感じている。
マスクをかける人は、そのマスク姿を不気味に感じる人がいる、そのことをどう思っているだろう。何かしらの配慮をしているのだろうか。そんなことは考えたことすらないのかも知れない。私にはそれがもっともブキミだ。
昔みた映画を見直した時、あの頃の自分は何を見ていたんだろうと思うことがある。
”Footlose”(邦題:フットルース)は1984年の、Herbert Ross が監督した映画だ。当時、監督は57歳、ただのダンス映画や青春映画を撮ったはずはないのだが、表面的にしか見ていなかったな。この映画は、若者には社会の理不尽と戦う方法を、大人になるとはこういうことだよ、そんなことを教えてくれているように思う。
ダンス禁止の町が舞台だ。羽目を外した高校生の事故が要因とは言え、ダンス自体が若者たちの不行跡の原因ではない。が、社会にはこうした理不尽な決定が、まま存在する。かたくなで偏狭で「道徳的な大人」はどこにでもいる。反発を無軌道な行動でしか表現できない牧師の娘(Lori Singer as Ariel)と、町民集会の場で熱くなりすぎず論理的に覆そうとする若者((Kevin Bacon as Ren)。その対比のなかに、大人としての振る舞いが示される。
例えば、主人公が「君の父親を嫌っているわけでも、それを理由に戦っているわけでもない」と、決定(思想や行動)と個人(的な好き嫌い)とは異なるんだと語るシーン。家族をすてて家を出ていった父親について「親父はあの時、そうするしかなかったんじゃないか」と母親に語るシーン。親を客観的に見ることは「自立」の指標だと思う。自分の今を誰かの所為にしない、親との関係に折り合いをつける、そういうことが「大人になる」と言うことなんだと。
そして、町民集会でダンス禁止への反対提案が却下されたら、町境の向こうの倉庫を会場に卒業パーティーを開くことで承認を引き出す。交渉によって妥結点を見出す、正面突破で敵対するよりも柔軟な思考で対処する、そういう大人のやり方もあると。
それをさりげなく、時代と若者に訴求する形式で、しかも、とてもかっこいい音楽やダンスや友情をみせる。”footlose”は、家庭や仕事、あるいは戒律などの束縛を離れて、好きな所へ行ける、好きなことができる、そいうい状態をさす言葉だ。「束縛」からの離れ方は逃避や敵対だけではない。
相手にもそれなりに納得のできる方法や論理で目的をかちとる、そういうことを冷静に粘り強くできる、それが大人ということだと思う。
「目から鱗(ウロコ)が落ちる」はよく使われる慣用句だ。「大辞泉」には「何かがきっかけになって、急に物事の実態などがよく見え、理解できるようになるたとえ。」とある。元は『新約聖書』の「使徒行伝」第9章にある、”The scales fall from one’s eyes.”からだと。(scaleが複数なのは両眼からの意味だろう)。
「私たちの目にはたくさんのウロコがつまっている」というのは、『リセット』北村薫, 2001年1月、の第一部に出てくる。
時代は日本が戦争に向かう頃、女学校にかよう主人公が、家庭科(戦時中だったら「家政科」か)の授業で、洗濯板の使い方を習う。「ごしごしと汚れを擦るのではなく、石けんを泡立てるためのもの」という授業について、主人公は「目から鱗が落ちるおもいがした」という。それに対し一人の級友が、「きっとそれは、私たちの目にはたくさんの鱗がつまっているということ。今日の授業はそれを教えてくださったのよ」という。その言葉に主人公はいたく感動し、級友の慧眼と聡明さに畏敬の念を抱く。(この級友は、その後に空襲で命をうばわれる)。
この『リセット』は輪廻転生の物語だ。少女が心を寄せた少年は、空襲で命をうばわれる。戦後を生きた少女は、戦争10年を経て、少年の生まれ変わりの子供に出会う。しかし、巻き込まれた列車事故でその少年を助け、自らは生をおえる。その後、成人した少年は、再び、この少女の生まれ変わりの女性に出会う。長い物語の第三部は、父親が子供たちに自分たち夫婦の前世からの縁と不思議な話を遺すかたちですすむ。父親はどうしてもそのことを子供たちに伝えなければならない。余命が限られているからだ。そして「我々は死んだりしない」という言葉で話はおわる。
読み手によっては長く退屈な物語に思えるかも知れない。が、伴侶や恋人をなくしたものにとって、「輪廻」「転生」はあるかも知れない、きっとある、そう信じることが救いでもある。
生あるものは必ず死ぬ。「科学的に証明されていない」転生などは存在しない、というのは、「現時点では」との注釈が要る。それまでの科学的常識は新たな発見によってたびたび覆されてきた、それもまた科学的な事実だ。「私たちの目にはたくさんのウロコがつまっている。それに気付いていないだけ」が真理であるように思う。
2015/11/08映画『氷の花火 山口小夜子』プロジェクト から「リターン」が届いた。
『SAYOKO YAMAGUCHI』のスカーフ、映画のパンフレット、映画の限定オリジナル商品(ポストカードセット、クリアファイル、トートバック(原画は山口小夜子)」(非売品)のセット。男の私には使い道がない。姪が欲しいというのですべて渡した。
映画『氷の花火 山口小夜子』プロジェクト は、クラウドファンディング(crowdfunding)で、同映画の監督、松本貴子さんが全国公開のための資金を得るために興したプロジェクトだ。それに幾ばくかの寄付をした。期限内に必要な資金が集まり、プロジェクトは成立した。そのお礼として上記の「リターン」が届いたのだった。
参考までに、クラウドファンディング、映画のサイトは以下。
ファッションドキュメンタリー映画『氷の花火 山口小夜子』 – CAMPFIRE(キャンプファイヤー)
映画『氷の花火 山口小夜子』、監督、松本貴子
京都での公開は、京都シネマで来年とのこと。しばらく待とう。
11月になった。夜明けの時間が少しずつ遅くなり、6時を過ぎる頃、ようやく陽がさし始める。今朝、初めて見る不思議な雲が比叡山にかかっていた。赤く朝焼けに染まりそうなのに、夜を遺しているような雲だ。
宝ヶ池の対岸まで歩いてくると、空の雲は、水に垂らした薄墨がひと吹きの息で少しずつ姿を変えたように広がり、朝日は山の向こうに白く輝いていた。
池からは靄がたちのぼっていて、水面に映る雲はひときわ輝いて見えた。京都国際会館の前まで来ると、雲は朝日を受けてオレンジ色に変わっていた。空の色は夜明けから朝になった。
薄雲の空に紅葉が鮮やか映えていた。
八幡堀を歩きたくなった。歩くなら天気のよい、早朝がよい。観光地だけに朝8時を過ぎると人が増え始める。日牟禮八幡宮への参道には車を駐めるに十分な場所がある。この日、まだ駐車している車はほとんどない。参道脇の店もまだ開いていない。まだ日があたっていない堀の水は深い碧色で、水にうつる景色が鮮やかに見える。
船着き場を過ぎて西へ歩くと、土蔵を改装したカフェがある。シフォンケーキが美味しかった記憶がある。開くのは2時間先だ。街中にはW.M.ヴォーリスさんが設計した建物が残る。旧八幡郵便局もその一つだ。建物には少しずつ削るような時間の経過が刻まれてゆく。近江八幡は、妻と一緒に、何年かごとに訪れていたところだった。おそらく、もう来ることはないだろう。