備忘:10 Useful Windows Commands You Should Know

10 Useful Windows Commands You Should Know
How-To Geek – For Geeks, By Geeks. (http://www.howtogeek.com/)

ipconfig
ping, tracert
sfc /scannow
netstat -an
は比較的よく使った。今は、ネットワーク監視の多機能ソフトウェアがあるので、コマンドラインで使うことは少なくなった。備忘のために。

ITmedia PC USER, 鈴木淳也の「Windowsフロントライン」
使い勝手が向上した「Windows 10 Technical Preview」のコマンドプロンプトを試す

キーボード・ショートカットによるコピー&ペースト機能が Windows 10 のコマンド・プロンプトでようやく正式サポートされることになった、とのこと。
[Ctrl]+[C]:指定範囲の文字をクリップボードにコピー
[Ctrl]+[Ins]:指定範囲の文字をクリップボードにコピー
[Ctrl]+[V]:クリップボード内の文字を貼り付け
[Shift]+[Ins]:クリップボード内の文字を貼り付け

範囲選択時の[Ctrl]+[C]は「コピー」、それ以外のタイミングでの[Ctrl]+[C]は「停止処理」と、操作状況によって挙動を変えて動作する仕組み。これもありがたい。
とはいえ、コマンド・プロンプトで直接コマンドを打たねばならない場面は、まぁ、あまり良い状態ではないことが多い。活用しないことを祈ろう。

Apple Music で音楽の聴き方が変わった

Apple Music
Apple Music
Apple Music

Apple Music を使い始めて1ヶ月半ほどたった。まず、音楽の聴き方が変わった。CDを買わなくなった。まだ、お試し期間中なので利用料は発生していないが、有料期間になっても月980円ならば、今後も使い続けるつもりだ。

邦楽はほとんど聴かないので支障はない

ここ5年ほどで約400枚ほどのCDを購入した(と思う)。それが月額CD1枚分以下の費用ですむ。購入したCDの半分はクラシック、それ以外の大半は輸入盤で、国内の歌手やバンドは10組程度でしかない。評価記事などで「日本の音楽が少ない(ので、日本での利用者数の伸びは難しいのでは)」と書かれている点は、私にして見れば長所だ。

クラシックは一生かかっても聴ききれない

クラシックに関して言えば、作曲者、指揮者、オーケストラ、曲名などで検索すれば、それこそ山のように出てくる。一生かかっても聴ききれない(と思う)。
好みの歌手やバンドのなかには中古でもCDが手に入りにくいものがたくさんある。例えば、Nicolette Larsonの”Radioland”など、Amazonでは中古(廃版で新品自体がない)が5千円以上もする。こんなのが Apple Music では好きなだけ聴ける。
(それでも”In the Nick of Time”と”Sleep, Baby, Sleep”はApple Musicにもないが、そのうち加わるだろう)。

再生はiMac、持ち出す場合はiPod, iPod touch, iPadで

現在の私の使用法だが、仕事をしながら、あるいは本を読みながら聴くことが多い。集中したいときにはヘッドフォンを使うこともある。
再生するのはiMac(27inch, 1Tb HDD)かWindows7 ProのデスクトップPC(500Gb HDD)のどちらかだ。
外に出るときには iPod か iPod touchが多い。これらは公共交通機関での読書に集中する(雑音の遮断)ため。新幹線で東京に行く場合など、iPadでデジタルブックや青空文庫を読む。音楽を聴くのも1台ですむ。

なお、仕事で使っているデスクトップPCは上記とは別に2台あって、音楽や映像配信などには一切使用していない。iTunes自体もインストールしていない。ラップトップは4台(うち2台は現役ではなく、愛着があるので置いてあるだけだが)。
上記のすべてのPCなどはLANにつないである。NASは2台、仕事用の2Tbと写真や音楽など用の1Tb。ここにiTunesのCDはバックアップしており、Apple ShareでWindows PCからもiTunesで使える。iCloud も使っているので、まさかのときには少なくとも仕事のデータと写真とは救うことができる。写真はGoogle Photoにも置いてある、進行中や保存が必要な仕事のデータはDropboxにも待避させている。

まぁ、ここまで書いてみて、かなり特殊な環境と使い方なのかも知れないなぁ、と思う。

夏の終わり-五山の送り火

今年も16日に大文字山(如意ヶ嶽)に上ってきた。4時に家を出て、銀閣の裏に自転車を置き、のぼり始める。まだ暗いのでハンドライトをつける。私の前方に二三の灯りが見える。昨年は4時頃まで雨が降っていたので人が少なかった。今年は天気が良く、今日は日曜日だ。人出は多かろう。

送り火の日の朝焼け
送り火の日の朝焼け(大文字山からの展望)

私の前を歩いていた人たちにはすぐに追いついた。別に早足ではないのだが、女性や高齢者が一緒だと歩みが遅くなる。今年も麓から休むことなく、「大」の要に着いた。まだ薄暗く、眼下の街の街灯や信号が目立って見える。要の場所にある祠に詣でる。

北の空には朝焼けが広がり始めた。もうすぐ夜が明ける。

先客は十人を少し越えるくらいだが、六七人の若者が妙にはしゃいで大声で話しながら携帯電話で写真を取り合っている。落ち着かないので、そのまま山頂に近い「大」の先端部の火床まで上がる。ここまで来ると、涼しい風が吹き始めた。

汗を拭いていると、上から犬を連れた軽装の女性が降りてきた。少し驚いたような顔でこちらを見たので「おはようございます」と挨拶すると、彼女も微笑んで挨拶を返してくれた。歩き慣れた軽やかな足取りで急な階段を降りていった。

10分ほどそこにいたが、5時半近くになってきたので、下山することにする。下りでは、ほとんど列が途切れることがないくらい人が上ってくる。家族連れや子供の姿も多い。挨拶をしながら、ゆっくり20分ほどで降りきる。最後の階段状の場所では足に疲れを感じた。これまでこんなことはなかったのだが、確実に老いているということか。
もう少し毎朝の散歩のペースをあげておこう。

点火直後の「妙」
点火直後の「妙」2015/08/16
徐々に火勢が落ち着く「妙法」
徐々に火勢が落ち着く「妙法」

送り火は友人のアパートの屋上で見た。「妙」「法」が目の前に、少しだけ振り返ると「大」(如意ヶ嶽)もよく見える。火が消える頃に雨粒が大きくなってきた。

盂蘭盆会をすませ、京都の夏が終わる。

備忘:京都府初の高精度陽子線がん治療システム

ニュースリリース:2015年7月27日:日立:最先端の陽子線がん治療システム
永守記念最先端がん治療研究センター向けに最先端の陽子線がん治療システムを受注。京都府立医科大学附属病院の放射線治療施設として運営、2018年度中の稼働開始をめざす。

医療機器ニュース:京都府初の高精度陽子線がん治療システム
日立製作所は、京都府上京区内に建設予定の「永守記念最先端がん治療研究センター」向けに、京都府初となる陽子線がん治療システムを受注したと発表した。

少なくない友人や知人が癌で亡くなっている。なかでも膵臓癌、肝臓癌で亡くなった知人は外科手術では治療が難しかったようだ。上記の陽子線や炭素線による重粒子線がん治療がもう少し普及していたら、と思うこともある。技術は日進月歩だが、問題は器機のコストだ。当然、患者負担に跳ね返る。

さて、上記のような施設ができたとして、私自身はどうするか。

私はすでに、すべての延命治療を拒否する旨の「宣言書」を書いていて、常に携帯している。死にいたる病なら受け入れる、妻が逝った時からそう決めている。

遺伝子の不思議

8月4日に二人目の孫が生まれた。七ヶ月あたりから流産の恐れがあって彼女の母は入院することになった。それからひと月、これ以上お腹の中にとどまることが難しくなった。二千五百グラムに満たない彼女はこの世に生まれてきた。これから1ヶ月ちかく彼女は保育器になかで過ごすことになる。

彼女に面会できたのは、生まれてから十日ほどたった後だった。とても小さい。彼女に触れることはまだ許されなかった。見ていると、大きく伸びをし、小さく欠伸をする。ふと、彼女には旋毛(つむじ)が二つあるのに気付いた。彼女の父も母も旋毛は一つ、彼女の母方の家系には二つ旋毛はいないそうだ。

旋毛の形や数は遺伝に起因するのだそうだが、どうした要因で二つ旋毛になるのかはまだ解明されていないのだそうだ。だが、遺伝的要素はある。亡くなった妻には彼女と同じように旋毛が二つあったからだ。そして息子(つまりは彼女の父だが)には現れなかった何らかの遺伝子が、息子をとおして彼女につたわったのだろう。こうして命は続いて行くのかと、遺伝子の不思議を感じた。

今はただ、彼女の無事な成長のみを祈り願う。

備忘:10 Things Japanese People Do Better Than You

Ninja Journalist は、私がときおり訪問するニュース系ブログサイトの一つ。世界中にいる投稿者が送る記事はとても適切に時代と地域をきりとっているように思う。そのなかの以下の記事。

10 Things Japanese People Do Better Than You | Ninja Journalist

Japan has always been one of the countries that sits quietly in the corner, whilst places such as the UK and USA make all the headlines. However, it’s always the quiet ones you have to watch out for; so they say. In fact, Japanese people are doing a ton of things a lot better than the rest of the world. From technology to comic books, here are the 10 things Japanese people do better than the rest of the world.

日本はつねに静かに世界の隅(中央ではなく)にいるような国だ。英国やUSAのようにニュースのトップ見出しをかざっている(つくっている)、その一方で。その国はいつもとても静かに(自らを誇大に主張しない)ので、気をつけて、見ようとしなければならない、そう言われている。事実、日本の人々は数え上げれば切りがないコトはやモノをより良いものにしている、日本以外の世界のどの国よりも。それこそ様々な技術から漫画本にいたるまで。その十のモノあるいはコトは以下。

  • Video Games
  • Vending Machines(自動販売機)
  • Food
  • Anime and Manga
  • Public Transport(公共交通機関)
  • Punctuality(時間厳守ということ)
  • Toilets
  • Restaurants
  • Customer Service(利用者・お客への対応・サービス)
  • Technology

以下の記事も興味深い。

7 Poorest Countries In Europe | Ninja Journalist

Windows10:動作しないスタートメニューの修復

Windows7 Pro(日本語、32bit)のデスクトップ機(TC M57、2008年製)を8月1日、Windows10にアップデイトしてみた。アップデイト自体は問題なくすすんで、インストールしていたLibre office、アプリケーションの起動や動作にも大きな問題はなかった。

Windows10はNT系のカーネルで開発段階では「6.4」だったが、開発版から正規版になった時にカーネル・バージョンも「10.0」になった。バージョン番号は一足飛びに10.0になったが、元は「6.4」なので、そう大きな変更はない(はず、と思う)。Windows7やWindows8.0/8.1あたりで問題なく使えていたアプリケーションに問題の起きる要素自体は少ない(はずだと思う)。

スタートメニューが反応しない

しかし、問題はやっぱりあった。Windows10の売りでもある、スタートメニューとタイルメニューの複合した新スタートメニュー(StartMenu)が反応しない。
探してみると、Windows10のスタートメニューが表示されない、動作しないなどの例がいくつか見つかった。
Windows 10 のスタート メニュー、Microsoft Edge – マイクロソフト コミュニティ
ここに記載されている修復法を試してみると、無事、新スタートメニューが動作するようになった。

修復の手順

以下の操作をする場合、念のため、ウィルス・インターネット・セキュリティーソフトは停止させておく(再起動後に動作させる)。

1. 管理者権限でコマンド・プロンプトを起動する(開く)
2. 以下を入力して Enter キー。
dism /online /cleanup-image /restorehealth
(DISMコマンドで、ダウンロードしたWindows10のイメージファイルのチェックと修復)
画面に動作メッセージが出る。4~5分程度。終了すると、「無事終わった」旨のメッセージがでる。
3. 同じプロンプト画面に以下を入力して Enter キー。
sfc /scannow
(システムファイルの整合性チェックと修復)PCによっては10分以上かかる場合がある。
4. さらに以下を入力して Enter キー。
powershell
(これで、powershell モードに)見た目は通常のコマンドプロンプトと同じ。
5. さらに以下を入力して Enter キー。
Get-AppXPackage -AllUsers |Where-Object {$_.InstallLocation -like “*SystemApps*”} | Foreach {Add-AppxPackage -DisableDevelopmentMode -Register “$($_.InstallLocation)\AppXManifest.xml”}
(Windows10のインストールファイルから必要なSystem Appを取り出して再インストール)
実行すると、進行状況を示すインジケーターが表示され、終了したらプロンプト画面に戻る。
6. コマンドプロンプトのウィンドウを閉じる。

通常はこれで、修復される。念のため、Windows10を再起動。

以下、参考。
DISM Global Options for Command-Line Syntax – Windows 10 hardware dev
Use DISM in Windows PowerShell – Windows 10 hardware dev
Appx Module Cmdlets
Get-AppxPackage
Microsoft PowerShell

夜明けの散歩にて

比叡山の陽の出
比叡山の陽の出(2015年7月21日5時35分)

夜明けをはさんで1時間ほど歩くのが日課だ。はやりのウォーキングではなく、空や花などを見ながら、写真を撮りつつの、ただの「散歩」。

今の季節には、比叡山のやや北側から朝陽がのぼる、おおよそ5時半ころには夜が明け、6時頃には陽がさしてくる。それまでに散歩を終えると、夏の陽を浴びずにすむ。

このごろが京都のもっとも暑い時期だ。昼間に散歩しよう、いやいや外に出ようなどいう気にはとてもならない。

いまは4時半頃に家を出て、5時半過ぎには家に戻ってシャワーを浴び、すっきりしてからコーヒーもしくは紅茶を入れる。それを飲みながら、やおら仕事にとりかかる、というのが通常の一日の始まりだ。

これから日の出の時刻が少しずつ遅くなる。私はそうして日を重ねてゆく。

静かに誰にも知られずに退く

今日、死を知らせる葉書を受け取った。以前勤務していた職場の上司のものだ。「故人の意思によって家族のみで弔い、すべてを終えた後に知らせた」旨の詫びが記してあった。命日は5月26日、享年75歳。

30年ほど前のことだが、その人と一緒にある議員さんの葬儀に出たことがあった。仕事の一環でもあった。その帰り、「ワシはあんな葬式はかなわんなぁ」、「すべからく、退くときには静かに誰にも知られずに退場したいもんや」とその人は言った。その言葉どおりに、その人は去った。

私は、三十代半ばに勤めを辞めて、その後はずっと個人で仕事をしてきた。海外での仕事が主になってからも、京都に戻ったおりには、その人を訪ねてはついつい話し込んでしまう。その人は聞き上手でもあり、しかもさりげない示唆をくれる人だった。

仕事には厳しい人だった。広報誌の原稿を初めて書いたとき、「よし」と言ってもらえるまでに8回、全文書き直したことがあった。「これでは記事にならんなぁ」、「前のものは全部捨てろ。もう一度書き直し」
私は丸三日間、その記事にかかりっきりだった。最後に提出した原稿を丁寧に見て、その人は何カ所か手を入れた。それだけで見違えるほどの文章になっていた。
「しんどかったやろうけど、こういう苦労は若いうちにしといた方がええ」、その人はそう言った。

担当部署がかわっても、その人には相談をし、レポートなどもずいぶんと読んでもらった。勤めを辞めたあと、初めての海外プロジェクトのレポートも読んでもらった。「なぁに、書く苦労に比べたら読む手間なんぞたかが知れとる」そう言って、丁寧な感想と示唆をもらった。

人には、「あの人がいるから、こんなことでへこたれてはいられない」、そう思えるような人が要るのだと思う。私には二人いる。一人は妻で、もう一人が元上司のMさんだった。もう二人ともこの世にいない。それがなんとも寂しい。

Adobe IPC Broker は何だ?

Windows で Task Manager を起動させると、種々の現在動いているアプリケーションやサービスの状況を見ることができる。
まだ、Windows7 Pro 機はウェブ関係の仕事道具として使っている。 Task Manager で目についたのが Adobe IPC Broker だ。こいつは何だ?

プロセスを終了させても、数秒後には復活してくる。30秒に1回、Adobeのサーバーにデータを送っている。
Adobe Updater を最新版にすると、Adobe Creative Cloud の入り口ソフトに変更されてしまう。それの付属品ではないかと思うが、確証はない。

Wireshark のlogでは、
“Approximately every 30 Seconds a Process named “AdobeIPCBroker.exe” is sending encrypted Data with a length of around 1 to 1.5 kb to an Adobe Server (IP’s: 184.73.196.194  /  184.72.243.134  /  54.225.235.210) via TCP / TLSv1 Protocoll using Port 443.”
Wiresharkは以下から入手できる。
参考:Wireshark – 窓の杜ライブラリ

以下のAdobe Communityでも議論が続いているが、Macではクラッシュしたときの非常保存の機能だとか、Acrobat PDFに関係するのではとか、CS3を使っているがそんなものは要らないとか、結局、何者で何をしているのか、未だに結論(というか、解決)らしきものはない。Adobeのサポートも何も言っていないので、ブラックボックスのままだ。
AdobeIPCBroker | Adobe Community

ふと port 443 を閉じたらどうなるか、などと考える。が、CS6がまともに動かなくなっても困るので、今は、取り敢えず放置しておく。

あの時代の日本人、そして現在の私たち

今年は1945年から70年目だ。そのためか、あの時代、あの戦争を回顧するようなものを例年に比べて多く目にする。

あの時代をどう考えるのか、自分の人生にどう生かすのか、私には一つの指標にしているものがある。伊丹万作(映画監督)さんの「戦争責任者の問題」という文章だ。『伊丹万作全集』筑摩書房, 1961年7月初版の第1巻の最後(p.205)にある。初出は『映画春秋』創刊号・昭和21年8月、原稿の日付は4月28日と記されている。

この全文は、現在、「青空文庫」で読むことができる。以下。
伊丹万作 戦争責任者の問題 (URL:http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html)

伊丹さんは、あの戦争について、いたいけな子供を除いて、すべての日本人自身が戦争の加担者だったと言う。それを「自分はだまされたのだ」などと卑怯な言い訳はするな、だまされたというなら自らの不明と意志薄弱を恥よ、と。そして、だまされたというなら、もう二度とだまされないように自らを真摯に真剣に省みよ、「あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。」と言い切る。

私は、これがあの戦争の真理だと思う。しかし、その後から現在はどうだろう。70年後の今日、私たちは「だまされて」いないのか、私たちの悪癖は少しでも改善されたのだろうか。私は疑問に思う。だから、二度とだまされないよう、権力やマスコミ、政党、威勢の良いことを言う人などの言うことはすべからく「本当にそうなのか」と考える。

伊丹万作さんは、この文章が雑誌に掲載された直後、1946年9月21日に京都で死去した。享年47歳。

以下、「戦争責任者の問題」からの引用。これらは、ハンナ・アレント(Hannah Arendt)が「アイヒマン裁判」の報告において指摘した「悪の凡庸さ」とも同質の視点だと思う。

だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家と に劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを 際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。

いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。

だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされ たとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現 を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこ ととは、されていないのである。

上記のことから、戦争責任についての以下の一文は至言だと思う。

いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。

そして、今後を考えるとき、私たちはどう生きるのか、以下に明示されている。

また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失 い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのであ る。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

昭和21年(1946年)時点での以下の警句は、その後の日本に生かされたのだろうか。

「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。