Now and Forever, 1992, Carol King

“Now and Forever”, Carol King はあの辛かった時期にほんとうによく聴いた曲だ。今でもしばしば聴く。

“Now and Forever”は、”A League of Their Own”, 1992 のエンドタイトルの曲として Penny Marshall 監督から依頼されたものだ。Carol King 自身が ”Welcome to my Living room”(DVD)のなかで語っている。しかし私には、突然の別れによって伴侶や恋人を失った人のための曲に思えた。そしてそれは、先に逝った者が残された者に語りかけてくれているように感じたのだ。

英語の”I”や”You”には性別が付随しない。だから聴き手がその曲をどう受け取るかに制約がすくない。とくに好きな詞は以下。

You are a part of me, when you walked into my life.

Walk には「自分の意志で」歩を進める、足を前に出す、という意味合いがある。”a part of me” もどこと特定ができない「一部」、「私の人生に不可分な人」に近い意味合いだと思う。

All the promises (are) still unbroken and think about all the words between us that never needed to be spoken.

すべての約束はまだ生きている(失われてはいない)、私たちの間にあるのは敢えて口にする必要のない言葉、それは「心で通じ合っていた」「わかり合っていた」ということだろう。

”We are the lucky ones. Some people never get to do, all we got to do.

私たちはとても幸運な二人(互いが互いにとって最良の)だよね、誰もがそうなる(できる)訳じゃない、それを私たちはやり遂げた(そうなった)んだから。

最後の歌詞は、

I miss the tears, I miss the laughter
I miss the day we met and all that followed after
Sometimes I wish I could always be with you
The way we used to do
Now and forever, I will always think of you
Now and forever, I will always be with you

ともに悲しみ、共に笑った日々、始めて出会ったあの日、そこから続くすべてのことが、いま(それができないから)とても寂しく思う。
それまでと同じように(かつてそうだったように)ずっと一緒にいることが出来たらと、今でも折にふれて、そう願う(が、それはもうかなわない)。
今もこれからも永遠にずっと、あなたのことをいつも思い続ける。
今もこれからも永遠にずっと、ずっとあなたと一緒にいる。

歌詞(全文)は以下に。

Now and Forever

Now and forever, you are a part of me
And the memory cuts like a knife
Didn’t we find the ecstasy, didn’t we share the daylight
When you walked into my life

Now and forever, I’ll remember
All the promises still unbroken
And think about all the words between us
That never needed to be spoken

We had a moment, just one moment
That will last beyond a dream, beyond a lifetime
We are the lucky ones
Some people never get to do all we got to do
Now and forever, I will always think of you

Didn’t we come together, didn’t we live together
Didn’t we cry together
Didn’t we play together, didn’t we love together
And together we lit up the world

I miss the tears, I miss the laughter
I miss the day we met and all that followed after
Sometimes I wish I could always be with you
The way we used to do
Now and forever, I will always think of you
Now and forever, I will always be with you

風薫るのは皐月なのか

「風薫る」ときけば、ほとんど反射的に「五月」を思い浮かべるのだが、いつ頃からそうなったのだろうか。

風かをる軒のたちばな年ふりて
しのぶの露を袖にかけつる

は、鎌倉時代初期(1204年)の「秋篠月清集(藤原良経の私家集)」にある和歌だ。

散歩で見かけた八重山吹の垣根(2015.05.06 07:54)この歌のはじめにある「風かおる」を旧暦の皐月と関連づけて考えると、季節感がずれる。当時の暦による皐月(五月)は現在の暦の6月とほぼ一致する。橘の花の香りがしはじめるのは現在では5月初旬。となれば、当時なら卯月になるのだと思う。調べてみると、「風薫る」は「もとは漢語の「薫風」で、訓読みして和語化したもの」で、この時代には「花の香りを運んでくる春の風を指すことが多かった」との記述もあったので、当時の暦で春は睦月、如月、弥生ということになる。

五月まつ花橘の香をかげば
昔の人の袖の香ぞする (詠み人知らず)

は、古今和歌集(平安時代初期、成立は905年または912年)巻第三夏歌139番の歌で、伊勢物語にもある。
この和歌はいつ時点で詠まれたものなのだろうか。「五月まつ」はつまり「皐月の訪れを待っている今」の意味だとすれば、歌を詠んだ「今」は卯月だということになる。

どちらにしても、「風薫る」は五月(皐月)ではなかったということだろう。

園芸店のツツジの生け垣(2015.05.06 08:50)両方の和歌に共通する橘(たちばな)は、在来種の蜜柑で、現在の温州蜜柑よりも時期が早い。そして古来、橘は初夏を象徴する花として人々に親しまれただけでなく、昔を懐かしむもの、あるいは神聖なものの象徴としてもとらえられてきた、とのこと。やはり弥生の終わりから卯月のあたりをさしているのだろうな、と思う。

と、まぁ、こんなことを調べるために何冊も本を開いたり、ネットで検索したりしている時間、それも独りの愉しみでもある。

備忘:20 of your most hated cliches

BBC NEWS | UK | Magazine | 20 of your most hated cliches

上記は BBC News のサイトで見た記事。英語圏やヨーロッパにかぎらず、どこの人でもこういう言葉を「陳腐な決まり文句」と感じるのだと知った。思わずニヤッとする。

日本語でも、
「要するに」で話を始めるがちっとも要約も論点整理もされていないとか、
「事実~」を連呼するが根拠が示されない「じじつ」とか、
「基本的に」と言いながら話や論点が散漫でただ拡散しているだけとか、
「だから」「つまり」で会話を始める(人)が別に理由や根拠を明らかにしている訳ではない、
などなど、身の回りにたくさん例がある。

そのリード文は以下。

According to an online survey, cliches like “at the end of the day”, “24/7” and “literally” are among the most reviled. Here are 20 more that particularly irk Magazine readers.

“at the end of the day”:結局、とどのつまりは、の意。

“24/7″(twenty four-seven):24 hours a day, 7 days a week、1日24時間、1週間7日間ずっと、という意味。

“literally”:文字どおり、全く、完全に、誇張なしに、事実上、本当に、まさに、などの意味。

cliche(英語読みでは「クリシェィ」かな、アクセントは「シェィ」にある)
フランス語だが、英語でもそのまま使われる。(陳腐な)決まり文句、陳腐な表現、月並みな(もの)、ありきたりのこと、といった意味。

WordPress: blockquote のcssを手直し

WordPress の初期状態での<blockquote>は文字サイズがやや大きい。それをもう少し小さめにしようと思う。

WordPress Root > wp-content > themes > chateau 内、style.css の blockquote に関する以下を少し手直し。

.post-entry blockquote p,
.comment-text blockquote p {
border-right: 1px solid #b3af99;
color: #665f33;
/* font-size: 1.6153em; */ ←デフォルト
font-size: 1.38em;
font-style: italic;
/* line-height: 128%; */ ←デフォルト
line-height: 125%;
margin: 0;
padding: 20px 3.78071833%;
}

これでほどよいサイズになった。

以前、php 本体までかなり自分流にいじってしまって、手直しの悪循環に陥ってしまったことがある。このサイトでは、よほどの不具合がない限り、php 本体や WordPress コマンドには手を出さないと決めている。

解消しない疑問

「小説」の読み方は人それぞれだろう。たんに面白い話、よく出来た物語として読む人もあれば、作中の人物にだれかを投影する、共感して読むという人もあるだろう。私は、どちらかと言えば客観的に読む方だと思う。

作者はどういう意図でこの物語を書いたのか、何に触発されて何を表現しようとしたのか、それを考える。ただ、「小説」は作者が創作したもので、どこかに似たようなお話や出来事があったとしても、あくまでそれは架空の物語、そういうものだとも思っている。

昔、若い頃に読んだ小説で、未だに解消できない疑問がのこるのが『わたしが・棄てた・女』(わたしが・すてた・おんな)だ。遠藤周作さんの長編小説で、遠藤さん自身はキリスト教信者、その宗教観に根ざした小説を書いた人だ。手許にある文庫本は初版が1972年。この小説は1963年に『主婦の友』に連載され、1964年(東京オリンピックの年だ)に刊行された、と「あとがき」にもある。

小説に描かれるのは戦後すぐから昭和二十年代半ば、まだ日本中が貧しかった時代だ。主人公は中学を卒業後に農村から都会の工場に働きに来ている娘、もう一人は地方から都会の大学にすすんだ青年。その青年がひとかどの仕事を得、安定した暮らしをする「今」から、心に引っかかる過去のことを回想(あるいは懺悔か)する形で始まる。本の解説には「ハンセン病と診断された森田ミツの一生を描き、その一途な愛と悲劇を浮かび上がらせる。」とある。

私がこの小説を読んで解消できない疑問は二つある。主人公の女性は他人の不幸を自らのことのように感じ、なけなしのお金まで与えてしまう「幼児のような受容」を体現する存在として描かれる。が、その種の行動、主体性と知性を要しない「幼児のような受容」は本当にキリスト者の言う「献身」なのか、ということだ。
もう一つ、そんなキリスト教を始めとする宗教は神の名の下に他の宗教の信者を憎み虐殺し、現在もその争いは続いている。「受容」と「献身」は同一宗教信者間にしか存在しないのではないか。否、同一の神を信じながら、教義の解釈や後継者で争い分派し殺し合ってきた、キリスト教とイスラム教には千年にわたるそんな歴史がある。それは今も続いている。

作者の言う「幼児のような受容」のもとにある「献身」は、宗教に根ざしたものではなく、深い絶望の対局にしか存在し得ないのではないか。ハンセン病患者の看護に生涯を捧げた井深八重さん(小説のモデルだとも言われている)の人生から、そんなことを考える。

私は、すべてに神が宿る「八百万の神さん」のような、ゆるやかな受容に人の智恵を感じる。

邦題は知らない

同世代の人たちと話をしていて音楽の話題になった。その会話のなかで、私自身が驚くほど曲名を憶えていないことに気付いた。正確には、はやった洋楽について、原題は憶えていても邦題をまともに記憶していなかったのだ。だからか、話が微妙にかみ合わなかった。

高校生のときに、洋楽にやたらと詳しい同級生がいた。彼はビートルズ・フリークでもあった。その彼から言われたこと、「邦題なんか、日本人にしか通じんぞ。曲名は原題で覚えろ」。それを妙に覚えている。

至極まっとうな意見だと感じ入って、それからは、ともかく原題を憶えるようにした。といっても、今のように調べる手段が豊富にあるわけではない。レコード屋に行っては、レコードジャケットや裏の説明から原題を見つけてメモする、そんなことをしていた。

大学にすすんでからは、はやっている曲よりも気に入った歌手やバンドに興味がうつった。買うのはもっぱら輸入盤か「カットアウト」と言われる廉価盤だった。そのため邦題から原題を調べる必要はなくなった。学生時代にはステレオは買えなくて、友人のところに持ち込んではカセットテープに録音して聴いていた。今でもその頃のLPやカセットテープが相当数残っている。

友人たちとの会話で、邦題と原題がつながらず、わからなかったのは「悲しき天使」という邦題の曲。原題は “Those were the Days”, Mary Hopkin だった。それと、”Norwegian Wood”, The Beatles は決して邦題の「ノルウェーの森」などではない。敢えて訳せば「ノルウェイ産の材木」で、歌詞をみればその理由は一目瞭然なのだが、当時はほとんどの人が気にもしなかったのだろうな。

本を寄付する

私と妻の共通点のひとつは本好きということだ。結婚したとき、互いが持ち込んだ本が千冊を超えていた。書棚もお互いのものを持ち込んだが、それではすぐに足りなくなり、最初に買った大型の家具がガラス扉のついた桜材の書棚だった。もちろん、妻が選んで決めたものだ。

その書棚は確かに丈夫で、40年近く経った今でもまったく歪みも緩みもない。しかし私の給料のひと月分でも足りなかった。妻は「ひ孫の代まで使えるのだから高くない」、そう言い切った(その自信はどこから来るの)。

その後、子供が生まれ、子供の本も私たちの本も増え続けた。このままでは家が傾く。何年かに一度、もう読み返さないだろうと思う本などを、まとめて古本屋に取りに来てもらって、書棚を増やさないようにしてきた。それでも大型の書棚が狭い家に六つ、廊下の壁面も書棚だった。

妻の残したもののうち、衣類や鞄、靴などは早々に義妹や従姉妹たちが引き取ってくれたが、本は手つかずのままだった。昨年の秋、母校の大学(妻の勤務先でもあった)で、本を寄贈することで大学基金へ寄付ができるプログラムが始まった。ネット経由でも申し込みができ、宅配業者が取りに来てくれる。2回に分けて2千冊ほどを寄付した。三つの書棚が空いた。

それでもまだ、かなりの数の本があり、私独りになったのにじわじわと増え続けている。CDやLP、DVDもかなりの枚数がある。近々、寄付を申し込もうか、いやまだ視聴するかもと決めかねている。妻だったらパッと決断するだろうに、そう思った。

5年目の桜

桜越しに比叡山を望む

今年も高野川沿いの桜が満開になった。

ほぼ毎日、夜明け近い時間に散歩をしていると、桜の樹は1月下旬くらいから少しずつ少しずつ花をつけるために変化していることがわかる。上の写真は4月3日午前5時53分。下の写真は同日午前6時3分。

高野川沿いの桜

妻が逝って5年目の春。今年も桜は花をつけた。あと何年、私は一人でこの桜を見ることになるのだろうか。その先の見えなさが恨めしくもある。

さまざまな春

夜明けの散歩は、ときにこうした景色を見せてくれる。雲間から陽がさしてきた(3月17日、午前6時41分)

比叡山に陽がかかってくると山の端は白く輝き始める。この日は重い雲が空一面を覆っていた。日の出の時だけ雲が少し切れた。その切れ目から朝日が解き放たれたようにさしてきた。(宝ヶ池から比叡山を望む、雲間から陽がさしてきた、3月17日午前6時41分)。仕舞いの梅

私の住むあたりでは、朝日はつねに比叡山からのぼる。春の陽は比叡山頂よりも南側の山腹、冬の陽はもっと南、夏の陽は山頂より北側から。ちょうど山頂にかかるのは5月の始めころになる。

通りかかったご近所の庭に、見事な梅が咲いていた。もう梅は仕舞い近い。

桜のつぼみが大きくなったそして、桜はたしかに開花に向けて胎動していた。

自転車だから出会うもの

3月も下旬になると、穏やかな朝がつづく。自転車で走っていても心地よい。神馬堂に焼き餅を買いに行こうか。上賀茂神社へ向かう道は南側に社家の屋敷が連なる。ふと見ると、一本の木に紅白の梅が咲いていた。柔らかな春の朝日があたっていた。自転車だからこういうものにも出会う。

上賀茂社家にあった紅白の梅(2015.03.22 08:11)下は、上賀茂神社内にある、ならの社と「ならの小川」の別流。もう少し下流で、本宮内を流れてきた川と合流する。観光客はこちらにまではめったに来ない。静かで穏やかで良い。ここからは賀茂川沿いを出町まで、コーヒー豆を買ってかえろう。

京都はつくづく自転車にほどよい大きさの街だと思う。

ならの社(上賀茂神社、2015.03.22 07:45)

夜明けに散歩する理由

私が生活スタイルを朝型に変えたのは三十代も終わる頃だった。昼間の仕事で疲れ果てた出張先で、ホテルに戻ったのが夜の10時過ぎ、あまりに眠くてそのまま横になった。はっと目を覚ますと午前3時だった。疲れもとれ、思いのほか頭もすっきりしている。比叡山に厚い雲間から陽がのぼる(2015.03.17 06:27)

ネットにつないでみると、直ぐにつながるし、きわめて軽快。メールの巡回も快適そのものもだった。当時、インターネットはまだない、まだモデムを使って電話回線からNiftyやらいくつかのBBSにつないでいた時代だ。偶然だったが、電話もかかってこなければ、外も静かで、早朝の快適さに気付いた。

早起きの習慣に散歩が加わったのは2006年頃だった。

Indonesia 小さなモスク(この写真は2010年)仕事でインドネシアにいた。ジャカルタの朝はコーラン(をとなえる声)で明ける。その前に人々はお祈りのための水浴びをする、それが4時頃だ。どんな風に人々がモスクに集い、祈るのか、みたくなって近くのモスクまで歩いて行ってみた。外は幾分ひんやりして心地よく、鳥の声は良く聞こえるし、騒音や排気ガスや人いきれとは無縁の空間だった。そして、徐々に明るくなってくる空は一時もとまることなく変化する、朝日がのぼるときの荘厳とも思える空の色、翌日もそれが見たくなった。

日本に戻ってからも、日の出時刻の30分くらい前に家をでて、空をながめ路端の花を見、鳥の声をききながら、ただただ歩く。それが習慣になった。