Peter, Paul and Mary – Tonight in Person BBC Four, 1965

Bob Dylan(ボブ・ディラン)にノーベル文学賞を授与すると決定は、世界中で様々な賛否両論を巻き起こしているようだ。ノーベル委員会のこの決定について、私自身はとくに賛否も意見もない、「あっ、そう」と言うのみだ。

代表作の一つ ”Brow in the Wind” を初めて聴いたのは、ディランのそれではなく、Peter, Paul and Mary のそれだった。柔らかい音質と声、なめらかなメロディー、高度なハーモニー、歌詞が聞き取りやすく、心地よい。ディランのそれはその対局にあるように聞こえた。Peter, Paul and Mary は、私も妻の好きだった。82年にテレビドラマ「金曜日の妻たちへ」で使われたことで、日本でも彼らの評価が再燃した。その頃と、九十年代になってからの二回、コンサートにも行った。

Youtube で Peter, Paul and Mary – Tonight in Person BBC Four, 1965 を見つけた。2009年にBBCが過去の”Tonight in Person”のなかから選んで再放送したものだ。だから映像も音声もきわめて明瞭で、しかも余分な演出をしていないのも好感を持つ。このスタジオ・コンサートでも”Brow in the Wind”を歌っている。

歌い出す前に Peter Yarrow が “This song asks nine questions. The answer of these questions could determine to fate of all us in next generation.” と言って “Blowing in the Wind” を歌い始めます。「この歌には九つの問いがあります。これらの質問の答えは、次世代においての私たちすべての運命を決定する可能性があります。」

いま、私(の世代)は半世紀前のその問いに応えることが出来ているのだろうか。ひょっとすると、人類という種は永遠に答えを見出すことが出来ないのではないか。そんなことを思う。

アンジェイ・ワイダとポーランド

ポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajda)さんが亡くなった。90歳。ワイダさんはポーランドという国とそこに暮らす人々が負わされた苦難を描き続けてきた。

観た映画はさほど多くはない。
『灰とダイヤモンド』(原題:Popiół i diament、英題:Ashes and Diamonds),1958、『Korczak』(邦題:コルチャック先生), 1990、
最近では『Katyn』(邦題:カティンの森), 2007、くらいだろうか。

観ないよりは観た方がよい、ただ、観た後に重いものが残る。それは、人という種のもつ残忍さや野蛮、所行の酷悪さだ。そして恐怖と猜疑が支配する社会を生きることがどういうものなのか、映像と言葉で突きつけてくる。

第二次世界大戦の終結後、1989年に民主化されるまで、ポーランドは共産党政権(ソビエト連邦政府の支配の元で)の独裁だった。それ以前はナチスドイツに蹂躙され、東側はソビエト連邦に分割占領されてしまう。ポーランドの近現代史は苦難と戦争の連続だ。

最近、見た映画や読んだ本が、なぜかポーランドにかかわるものばかりだ。とくに意図したわけではないのだけれど。

『また、桜の国で』須賀しのぶ, 2016年 は、シベリアからのポーランド人孤児たちの救出(1920年)から、成長した孤児たちが結成した「極東青年会」の活動と、ナチス・ソビエト連邦との戦いを経てワルシャワ蜂起(1944年8月)に至るまでを背景にした物語だ。500ページ超の長い物語だが、一気に読んでしまった。

映画では、『あの日 あの時 愛の記憶(邦題)』、原題は『Die Verlorene Zeit(The Lost Time)』(英題:Remembrance), 2011, Anna Justice。

この映画は1976年のニューヨークから始まる。大学教授の夫と娘と暮らす女性、街の洗濯屋のテレビからきこえてきた声、第二次大戦時のポーランドで収容所から一緒に脱走し生き別れになったかつての恋人の声。彼を探すべきか、忘れるべきか、彼女の過去との対峙が始まる。

この映画で、ナチスの収容所から一緒に脱走したポーランド人政治犯の青年は写真のネガをポーランド亡命政府に届ける任務があった。収容所で何が行われていたのか、命がけで持ち出された写真が後の歴史に大きな役割を果たす。

この映画に触発されて読んだのが以下の二冊。

『アウシュヴィッツの囚人写真家』河出書房新社, 2016/2, ルーカ・クリッパ, マウリツィオ・オンニス

ポーランド人政治犯のヴィルヘルム・ブラッセ(写真撮影技師)がアウシュビッツ強制収容所でどのように生き延びたのかを、ドキュメンタリーと本人へのインタビューをもとに、ドキュメンタリー小説として再構成したもの。ブラッセは、ドイツ軍の撤退時に焼却されようとした写真とネガを隠し守ることによって収容所で何が行われていたかを後世に残した人。

『イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』 平凡社, 2006/8,ジョルジュ・ディディ=ユベルマン

アウシュビッツから命がけで持ち出され、英国、ロンドンにあったポーランド亡命政府に届けられた写真がその後どのようにして広報戦略の中で使われ、世界に広がっていったのかを考察したもの。

以下、参考までに。

Polish film director Andrzej Wajda dies – BBC News, 10 October 2016

Filmmaker Andrzej Wajda Dies At 90, Celebrated Resistance To Authoritarianism : The Two-Way : NPR, October 11, 2016

アンジェイ・ワイダ監督死去 「灰とダイヤモンド」:朝日新聞デジタル ,2016年10月10日

西川美和さんの書くもの

『永い言い訳』2016, 西川美和監督 の映画が間もなく封切りだ。観ようか観まいか、迷っている。理由は、原作の小説も西川美和さん自身の作だからだ。そしてその小説をすでに読んでいる。しかもこの本は、昨年読んだもののなかでも優れて印象深い本だった。だから迷う。

以前、西川美和さんの『その日東京駅五時二十五分発』について、つながる記憶をここに書いた。彼女の書く小説は、視点と連想(想像)がとても独特だと思う。私には思いもつかない、その提示が刺激的なのだと思う。

この本『永い言い訳』を書くきっかけは東北北陸をおそった大地震と津波だったのだそうだ。インタビュー記事を読んだ。

「人間同士の関係性は綺麗な形ばかりではなく、後味の悪い別れ方をしたまま相手が帰らぬ人になってしまったという不幸も、あの突然の災厄の下には少なからず存在したのではないかと。そしてそういう「暗い別れ」は誰にも明かされず、打ちあけられないままに埋もれていったのではないか。」
そんな不本意な別れ方をしたら、関係を修復することも、話し合って精算することもかなわない。残った者は「これから生きていく限り言い訳を繰り返していく、ずっと繰り返さざるを得ない」

確かにそうだ。「あの時こうしていれば、していたら」と思える人はまだ良い。それが及ばない、成り立たない状況での別れならば、他者に語ることが出来ない「言い訳」を秘して生きてゆかねばならない。

映画はやはり観ないでおこう。

思い込みは確認を遠ざける

中高年が多いという、あるSNSに「オリジナルより知られたカバー曲」というスレッドがあった。面白そうだと読んでみると、”I will always love you” の項で、オリジナルは Whitney Houston とあった。映画の主題歌でもあったし、ヒットもしたので、多くの人の印象に強く残ったのだろう。が、オリジナルではない。

この曲は、Dolly Parton が作詞作曲した、1973年にリリースした曲だ。もちろん本人が歌っている。そのあと、Linda Ronstadt が1975年のアルバム “Prisoner in Disguise” でカバーした。”I will always love you” は 、私にとっては、Linda Ronstad の印象が強い曲なのだ。

Whitney Houston がこの曲を歌ったのは1995年だ。調べてみればすぐに判ることなのだが、思い込みは確認することを遠ざけるもののようだ。「判りきっていること」や「当たり前のこと」こそ、もう一度、本当かなと確かめてみる。それを忘れないようにしよう。

辞書を較べる

テレビドラマの批評文に「そのあざとい雰囲気に警戒感を持ち」という表現があった。これを書いた人は「あざとい」をどういう意味で使ったのか、が気になった。最後まで読んで行くと、どうも「あざとい」を「態(わざ)とらしい」「いかにも不自然で計算ずくのような」という意味で使っているようだ。

言葉の意味や使われ方は、時とともに、あるいは世代によっても違ったものになってゆく。この「あざとい」は、古くは「思慮が浅い」「小利口である」「浅はかな」といった意味あいで使われ、近年は「やり方があくどい」「ずうずうしく抜け目がない」の意味の方が強いようだ。

気になる言葉をみると、すぐに辞書で調べる、それも複数で比較する。「あざとい」をいくつかの辞書で意味を調べてると、辞書によって扱い方が違っている。同時に、辞書の性格の違いが見えてきた。

まず、『用字用語辞典』『現代用語辞典』『記者ハンドブック』のような、実用系の辞書には採録されていない。「あざとい」は、”現代用語”という括りでは一般的でない言葉ということだ。

『新明解国語辞典』では、「やり方が露骨で・抜け目がなく、あさましい感じがする様子」とある。なかなかに丁寧な説明だ。

『広辞苑』では、
 (1)思慮が浅い。小利口である。浄瑠璃、神霊矢口渡「愚人原が―・き方便(てだて)に討たれさせ給ひしは」
 (2)押しが強くて、やり方が露骨で抜け目がない。「―・い商法」
『大辞泉』では、
 (1)やり方があくどい。ずうずうしく抜け目がない。「―・い商法」
 (2)小利口である。思慮が浅い。あさはかだ。「考え方が―・い」
 「―・き方便(てだて)に討たれさせ給ひしは」〈浄・矢口渡〉

両者の違いは、用例に基づき、広辞苑は古い使い方から、大辞泉は新しい使い方から、という編集方針の差異で個性でもある。なお、「大辞林」(三省堂)の見出しに「あざとい」はなかった。

日常、会話や手紙の中でどんな言葉を使っているのかは、個人の「ひととなり」をとてもよく現してしまう、と思う。様々な辞書を較べて使うのは、言葉の意味を知り、誤った使い方で齟齬をきたさないようにしよう、そういう姿勢がその人をつくってゆくのだと思う。

言葉にはつねに敏感で注意深くありたい。

燃える空に鳳凰

空一面が燃え上がったようだ年に何回か、燃えるような朝焼けに出会うことがある。10月5日は、まるで空一面が炎に包まれたような朝焼けだった。

鳳凰が飛んでいる朝焼けに気付いてのは6時10分前、数分すると比叡山の右側に、まるで首を伸ばした鳳凰が飛んでいるかのような雲がうかんだ。朝焼けは空一面に広がった。もしかしたら火の鳥は、太古の昔、こんな空をみた人たちが生んだのかもしれない、そんなことも思った。

朝焼けが消えた空それからわずか数分で空の朱は火が消えるように薄れていった。のぼり始めた朝日は空を明るくするが、朝焼けも消し去る。

年に何回か、ほんの数回、こんな朝焼けに出会う。それが楽しみで朝の散歩を続けている。

 

やはり京都は奥深い

手洗いに続く回廊から庭をみる(2016.09)

平野神社の西側、住宅地を歩いていると、小さな和風の喫茶店があった。その日は車の十二ヶ月点検でまだ1時間くらいはかかる。コーヒーを飲みながら本を読もうと入ると、その店の奥はかなり手の込んだ日本庭園になっている。コーヒーを頼み、「お庭を拝見しても?」とたずねると快く了承してもらった。

このお庭はかなりの広さ(南北20m、東西15mくらい)で、高低差があり、中央には石橋と島のある池があり、どうやら元々の地形を利用した庭のようだ。南東角には茶室、西側は池に張り出した高床式のレストラン。元は大きなお屋敷の一部だったのだ。

茶室横から池をのぞむ(2016.09)

大正初め頃の地図を見てみると、その庭を含む一街区が一つのお屋敷だった。いまは周囲がアパートや住宅に囲まれている。道路に面しているところも周囲より少し高いので、外からは、そこにそんな庭があることすら知るのは難しい。

大正時代の地形図からは南北方向に続く河岸段丘が認識できる。北にたどると鹿苑寺(金閣)の西側を流れる川と氷室道につながる。

古い地図で周囲を見ると、二条天皇陵以外はほとんどが田畑だ。この庭からは、北東には天皇陵と平野神社の森が、東には北野天満宮の森がみえ、遠景には東山連峰が一望できる。そして、大文字山はほぼ真東にある。

戦前まではこの景色を楽しむことができた、どんな人がこの庭から送り火を眺めたのだろう、そんなことが想像できる。やはり京都は奥深い街だ。

見ようとしないものは案外目に入らない

散歩しながら写真を撮っていて、後で見直してみると、「あれっ」と思うことがままある。先日も散歩していると空に朝焼けが広がりはじめた。早速カメラを構えてピントを合わせ、何枚か、場所をかえて何枚か。朝焼けを撮ったはずなのに(2016.09.26 0550)

が、写真は朝焼けよりも、林立する電柱と交錯する電線がやたらと目立ったものになっている。朝焼けよりも電柱を撮ったみたいだ。

写真を撮った時、電柱があるのは認識していた。が、目と意識の焦点は朝焼けに向いていた。電柱は意識の中ではずっと影が薄かったのだ。しかし、カメラは正直な機械だ。在るものは同等の存在して写る。

見たくないもの、見ようとしないものは、案外、目に入らないものだな、そう実感する。

つねに権力は、見ようとする人からものごとを隠し、見えなくし聞かせないようにする。批判し暴く人たちが機能しているのだろうか。どうも取り込まれつつあるように見える。

あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。

1946年に亡くなった伊丹万作(映画監督)さんの『戦争責任者の問題』の一節だ。

関連:あの時代の日本人、そして現在の私たち(2015年7月13日)

Bicycle (2016, UK) にみる自転車文化の成熟

Amazonプライムには、日本で公開されていなかった映画やドキュメンタリーがある。『Bicycle』はその一本だった。

『Bicycle』は、英国における自転車をめぐる歴史を画期ごとに振り返り、自転車の文化を創ってきた人たちのインタビュー、「自転車に乗る」文化が市民社会のなかにどのように成熟していったのか、それを的確に知ることができる。そして映像が美しい、音楽も良い。Bicycle UK, 2016映画の始まりは、監督の少年時代、父と子と自転車、その一枚の写真から始まる。最後は、父と4歳くらいの女の子が自転車道( Cycle paths)で自転車に乗る練習をしている。そして、乗れたことに飛び上がって喜び、父に駆け寄る。抱き上げる父と娘のショット。それは、この映画の監督とその娘だ。父から子へ、その子が父になり、そして娘へ。自転車に乗ること(Cycling)が家族の歴史とともに引き継がれてきているのだ、そう言っている。

余暇を楽しむ自転車、実用としての自転車、全国に張り巡らされた自転車道ネットワーク、今も都市内での自転車道の整備がすすんでいる。

“Bicycle” is a humorous, lyrical and warm reflection on the sport of cycling and the bicycle’s place in the British national psyche. (英国国民の魂とでも訳すか)。

National Cycle Network の整備をすすめる非営利団体:Sustrans | Join the movement

サイクリングと自転車に関する総合サイト:Better by Bike

BAFTA Award-winning director and keen cyclist Michael B. Clifford tells the story of cycling in the land that invented the modern bicycle, tracking its birth, decline and re-birth from Victorian origins to today. “Bicycle” is a humorous, lyrical and warm reflection on the sport of cycling and the bicycle’s place in the British national psyche.

Bicycle – New British film made by award winning Birmingham filmmakers
New British film made by award winning Birmingham filmmakers shows us the journey of the bicycle in Britain – Press releases – Media Centre, Birmingham City Centre, Visit Birmingham UK

こういう映像アーカイブスがあるのも自転車文化の成熟を感じる
Cycling On Film
UK国内のみ。日本からのアクセスではフィルム自体を見ることができないが、記事は読むことができる。

「あん」 映画と二人の人

見たかった映画「あん」( 監督・脚本:河瀨直美さん)のBlue-rayが届いた。見終わって、「あん」は音の映画だと感じた。音楽は最小限にして、風の音、外の音、人の話し声、生活音がつねに背後にある。その音の存在が、映画に奥行きと現実感をもたらしている。

映画の終わり、風に枝を揺らす木々と、その間を吹き渡る風の音だけの映像が続く。そこに「私たちはこの世を見るために、聞くために、生まれてきた。…だとすれば、何かになれなくても、私たちは、私たちには生きる意味があるのよ」と、徳江さん(樹木希林さんが演じるハンセン病患者)の声が重なる。

人は見たいもの聞きしたいものしか目に耳にも入ってこない。私たちの周りには常に音がある。しかし、よほど意識していないとそれらの音の大半は耳に入らず、存在しているにもかかわらず「ないもの」になってしまう。
聞こえないものを聞こうとする、見えないものを見ようとする、見逃さない、聞き逃さない、そういう意識はつねに持っていたいと思う。

もう一つ、ハンセン病に関してメモしておきたい二人の人。

小笠原 登(おがさわら のぼる、1888年7月10日 – 1970年12月12日)、医師でハンセン病(らい病)の研究者、元京都帝国大学助教授。以下に詳しい。

井深 八重(いぶか やえ、1897年10月23日 – 1989年5月15日)、日本の看護婦。
私は、井深さんがハンセン病患者の看護に生涯を捧げたのは、あまりにも深い絶望のゆえではないかと思う。ハンセン病と診断された(3年後に誤診と判明)結果、家族、職場、婚約者のすべてが彼女との関わりを拒み、いわば療養施設に「棄てられた」。八重さんには生きる場所が療養所とハンセン病患者のなかにしかなかったのだと思う。以下に詳しい。

午前五時のサイクリング

お盆を過ぎても、毎日、嫌になるほど暑い。最高気温が体温を超えるような日が続いている。昼間、もう午前8時以降は外に出たくない。それでも早朝はいくぶん過ごしやすい。湿度が低くて爽やかに感じる朝、いつもの散歩を自転車にかえて遠出する。夜明けの空(鴨川右岸から比叡山をのぞむ)午前5時ちょうど、鴨川の河川敷から比叡山の方向を撮る。明るさが増しはじめるとき、比叡山の周辺はオレンジ色に変わってゆく。遠くの北山は墨絵のよう。

早朝は何しろ人がいない、車もほとんど走っていない。だから快適だ。この日は出町から鴨川の河川敷を走って五条まで、そこから川東の路地を北へ。北白川のパン屋(朝6時半から開いている)でフランスパンを一本。戻りはずっと上りなので汗びっしょりになる。それもまた心地よい。